靖国神社
今まで、御朱印は色々と頂いてきました。主にお寺さんが主でした。
令和となり、最初に頂く御朱印はやはり靖国神社にしようと思いました。
こんな時代だからこそ、日本の為に、祖国の為に生きてくださった英霊をお祀りする神社から始めたかった。
単立神社である。
お寺さんで単立をお見かけしたことはあったが、神社にも単立があるようだ。
なので、神社本庁との包括関係には属していない。
招魂社から始まった。
大鳥居。
大鳥居は、東に向いている。
幕末維新期の戦没者を慰霊・顕彰するべく明治天皇の勅許を受けて、明治2年旧暦6月12日(1869年7月20日)現社地での招魂社創建が決定され、同月29日(8月6日)に仁和寺宮嘉彰親王(当時の軍務官知事)を祭主に戊辰の戦没者3588柱を合祀り鎮祭、東京招魂社として創建される。
東京招魂社は、最初上野に作ることが予定されていた。
上野の彰義隊と官軍の戦いは有名であるが、その際に江戸の総鎮護である寛永寺は火の海と化した。
当時、陸軍参与だった木戸孝允は、「此土地を清浄して招魂場となさんと欲す」と日記に書き、上野を東京招魂社の地と定めた。
しかし、その翌年に陸軍の創始者で兵部省初代兵部大輔(たいふ)の大村益次郎は九段の地を主張した。
『大村益次郎先生事蹟』によると、「上野は亡魂の地であるから、イッソ之を他に移すも宜しからむ」と言い、亡魂の地であったからだそうである。
それに九段は、かつての火除地(ひよけち)であり、のちの騎射馬場が置かれた場所で、土地に刻まれた記憶がなく、新たな神様を宿らせる場所としてはうってつけだった。
それと同時に九段の道幅の拡張もし、何か起きた時には重要な戦略拠点になることも考えていたようだ。(坪内祐三「靖国」)
その拡張された道は「靖国通り」であり、両国国技館まで延び、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地につながっている。
靖国神社の境内には、左手に双眼鏡をもっている大村益次郎の像がある。
明治12年6月4日(1879年)、明治天皇の裁可を得て靖国神社となる。
「靖国」は『春秋左氏伝』第6巻僖公23年秋条の「吾以靖國也(吾以って国を靖んずるなり)」を典拠として、明治天皇が命名した。
狛犬さん。
御祭神は
- 戊辰戦争・明治維新 7,751
- 西南戦争 6,971 政府官軍のみ 西郷隆盛×
- 征台の役(台湾出兵) 1,130
- 江華島事件 2
- 壬午事変 14
- 京城事変(甲申政変) 6
- 日清戦争 13,619
- 北清事変 1,256
- 日露戦争 88,429
- 第一次世界大戦 4,850
- 青山里戦闘 11
- 済南事件 185
- 中村大尉事外 19
- 満州事変 17,176
- 支那事変(日中戦争) 191,250
- 大東亜戦争(太平洋戦争) 213,3915
計 2,466,584 柱
維新殉難者として、吉田松陰・坂本龍馬・高杉晋作・中岡慎太郎・武市半平太・橋本佐内・大村益次郎も合祀されている。
靖国神社の一日
- 6時 開門 拝殿にある大太鼓が21回打たれて、菊紋章の神門の開門
- 8時 朝御饌祭 神職が神饌(祭神の食事)を供える
- 9時 朝拝 大太鼓が打たれ、すべての職員が拝殿に集合
- 14時 永代神楽祭 当日が命日である英霊の為の祭典。巫女による神楽。
- 15時 夕御饌祭 神職が神饌を供える
- 19時 閉門
靖国鳥居だ。
鳥居にも種類があって、神明系と明神系がある。
神明系の鳥居の構造はいたって簡単。2本の柱に笠木(かさぎ)と貫(ぬき)で構成されています。
鳥居の先は、神様の領域です。
鳥居が東向きだ。
殆どの神社は、南向きだ。
だが東向きも、北向きの神社もある。お寺によっては、西向きと、なんとなく意味があるものだ。
冬至の日の出の方向には、皇居大手門。
浅草寺は東京最古の寺院であり、もとは江戸の総鎮守だったが、のちに寛永寺が総鎮守となっている。
寛永寺は徳川のお寺であり、官軍によって焼かれてしまっている。
神社が南面せず、将門が神田神社の主祭神から外されたり、同じく神田神社の大灯籠から九段灯明台になったり、将門公の足の部分を祀る筑土神社を通過したりして、私が夢中になった天海の将門の北斗七星を思い出したりします。
令和になった5月。
40分くらい待って、御朱印をいただきました。