横須賀 三笠

 場所は横須賀。

日露戦争時では、当時の日本の最新鋭戦艦でした。

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ロシアのバルチック艦隊対馬沖で迎え撃ち、東郷平八郎指令長官が座乗する連合艦隊の旗艦として常に先頭に立って戦った戦艦です。
 
 
以前、海軍カレーを食べに来た覚えがある。
確か汐入で降りて、小泉純一郎が通っているとゆうカレーを食べに行った。
夕暮れせまる頃、街中を歩いたが、そこはまさに異国だった。
近くの基地から来たであろう黒塗りの車が降り立った。中には、偉いんだろうなって感じのアメリカ兵が乗っていて、そのまわりにはガッシリとしたSPの黒人が囲んでいた。
そんな記憶ですわね。
もっともその頃は、三笠なんてものには、全く興味なかった頃ですが・・・。
 
500円払えば、中に入れました。
あの時は「特別展 日露戦争に見る武士道」なるものをやっています。
入場券を買おうと思って並んでいると、前の白人さん達が、チケットを買おうとしていたところ。
並んでいたら、いんぐりっしゅで話しかけられてしまった・・・。
「お先にどうぞ」と言われたと思いますが、流暢に『Thank you !』と言ったら更に話しかけられてしまった。
ゲッと思って、更に困ったのが、目にみえるようでしょう?(笑)

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最新の無線も搭載されていた。
明治36年に開発された三六式無線機である。
これは、逓信省 技術の松代松之助が、作りあげていた実験機を、海軍技師の木村駿吉が大幅に改良したものである。
これにより、150km以上の通信が安定して可能となり、ロシアより優位にたてた
木村駿吉は、木村摂津守喜毅の息子。
幕末に軍艦奉行としてアメリカに渡り、帰国後は勝海舟とともに、日本海軍の組織整備に尽力した人物です。

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火薬の発明者、下瀬雅允(しもせ まさちか)も忘れてはいけません。
 
当時の火薬は乾燥するとすぐに爆発したので、常に
15%~20%の水を含ませておく必要があったが、その加減は難しかった。
多すぎると爆発力が落ち、少なすぎると爆発してしまうからである。
これを下瀬は、ピクリン酸にワックスを混ぜることで、冷やすと固まり、温めると爆発するとゆう安全性の高いものを開発した。

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さらに、当時世界最速を誇った日本艦隊。そのスピードを生み出したのが、「宮原式汽かん」
by 宮原二郎
特徴は、安価で制作が容易。 外国製よりはるかに小型で、エネルギー効率良し。

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そんな三笠。
戦いが終わったあと、佐世保に入港していたが、火薬室が爆発して沈没してしまったり、なんとか引きあげられるも、ワシントンの軍縮会議では、日本軍は他の艦船の問題を議題の中心にしたので、三笠は廃棄されることが決定した。
さらに、関東大震災で浸水し、浮力を失い廃棄は決定的であった
 
しかし、三笠の保存を願う国民の米国大使館の陳情と、政府が英米仏伊の4ヶ国に交渉を行ったので、保存された。
 
太平洋戦争で日本が敗戦すると、進駐軍は記念艦となっていた三笠の装備を取り外すように命じた。
これでもう、戦艦としての機能はすべて失い、ダンスホールとなってしまった。
が、次第に荒廃し放置されてしまった。
 
戦後10年が経過した際、昭和30年。訪日したイギリス人のジョン・ルビーは三笠を見て驚いた。
彼は時計商で、三笠が建造された時、日本の将校と親交が深かった。
だからこそ、三笠に人一倍愛着を持っていたのである。
帰国し、彼はそのことを「ジャパン・タイムズ」に投稿した。それは大きく取り上げられ、反響も多く、三笠保存の声が広がり、募金が集まり、修復が行われた。
で、現在は横須賀港にある。
 
外観は当時のままである。マストにはZ旗、艦首は日本の平和と安泰の願いをこめ、皇居の方角にむけられています

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提督ビールもお土産に
 
***由来
アミラーリ「東郷ビール」はフィンランドで生産が開始された。
東郷がラベルに登場したのは、意味があるらしい。
「大国ロシア」のバルチック艦隊を破った「東洋の小国日本」
 
それに勇気づけられフィンランドは1809年以降のロシアの支配と圧制から独立運動をおこし、1917年にこれを達成。
 
東洋の英雄「アドミラル トーゴー」は、現在でもフィンランドの小・中学校の教科書で紹介されているそうな。
1983年、(昭和58年) 当時の運輸政務次官フィンランドを訪問した際に、この東郷ビールの紹介を受け、深く感動した。
ビールを持ち帰り、「原宿東郷神社」に献上した。
その後、フィンランドの工場は買収され、ビンつめのみオランダで行われるようになった。
2006年8月からは、日本で生産されています。
お味はコクのある美味しいビールだそうです。(記念品のため、飲んでないです)
 
因みに横須賀くんだりから、ビールを2本買って持ち帰ってきて、かなり重かった。(T_T)
 
当時のロシアの海軍は、バルチック艦隊の他に太平洋艦隊、黒船艦隊があった。
日本艦隊と苦戦している太平洋艦隊と合流するために来たのだが、ルートも悪く、長い休息をとれないままやってきた。それで、アッサリと負けてしまったのかもしれない。
 
ですが、当時の日本兵は気骨があった。
上官を信じ、仲間を信じ、それぞれの仕事を行う。
そうゆう意識が、勝利を導いたのかもしれません。仲間を信じることが大切ね