一回一錠、日に三回服用

なにかといえば、正露丸のお話しです。
 
私が子供の頃。お腹が痛くなったりすると、母親は決まって正露丸を差し出した。
私は、この正露丸というものが大大大嫌いだった。
お腹は痛くても、飲んだふりしていつも吐き出して捨てていた。
だって、物凄く不味いんです。有り得ない、この世のものとは思えない不味さである。
まだ、赤玉のほうがマシでした。
 
 
この正露丸日露戦争当時からある。 当時は、「征露丸」であった。
当時の日本兵は、半数が病気でまともに戦えなかった。特に、脚気が多かった。
脚気はビタミン投与で治るものであるが、当時は伝染病だと思われていた。
 
脚気とは、手足のしびれや動機、足のむくみが出て、歩行困難・心不全でなくなってしまう。
当時、この病気は西欧にはなくて、日本で特に多かったので風土病と考えられていた。
それに患者さんが一人出ると、軍の中で次々に増えていくことから、伝染病と考えた。
陸軍軍医だった森林太郎森鴎外)は、ドイツで医学を学び、細菌を重要視する考え方であったため、伝染病と考えた。
 
そもそも正露丸の成分である木(もく)クレオソートは、1830年にドイツで木(木)タールから分離され、その当時は化膿症の治療や外用消毒薬として用いられていたものであり、殺菌作用がある。
その後、木クレオソートは胃腸疾患の治療に使われたのである。
 
日露戦争当時は、兵士は食料不足に悩まされていただけでなく、外地で赤痢・腸チフスマラリアなどの病気にも悩まされていた。
その時に利用されたのが、征露丸である。露国よりもまず、敵は病気であった。
征露丸は、脚気がなおる薬と宣伝された。
兵士のほとんどが、征露丸を携行するとはいえ、兵士の間では評判が悪く、薬を飲まず、戦闘の途中に缶ごと捨てていた。
その気持ちは、個人的によくわかる。
だが、このことを知った将校の提案で、征露丸の缶には、次のようなことが書かれた。
「陛下のご希望で一回一錠、日に三回服用」と書いたところ、誰も捨てなくなったとゆう。
個人的には、お気の毒にと思う。(苦笑)
でも、そのおかげで、病気に負けることなく、勝利をおさめ、兵士たちから絶対的な信用を得ることとなった。
 
でも、考えてみれば殺菌作用があったわけであるから、傷を負った時には消毒薬にもなるはずである。(勝手な推論)
便利なお薬であったかもしれない。
現に私の父は、虫歯が痛んだりすると、正露丸を歯に詰めていた。
その当時は、父のそのセンスを疑ったものである。
あんなマズイものを! 父は正気だろうか?有り得ないと思ったものです。
両親は他の家の家庭よりも、若干年齢が高かった。だから、あんなに正露丸ばかり飲ませようとしたのであろうか??
謎である。
だが、現在の正露丸の取説には、「本剤が誤って皮膚に付着した場合は、せっけん及び湯を使ってよく洗って下さい」と書いてあるようだ。
それにお腹が治らないからと言って、服用しすぎて亡くなった症例もあるのだから、
一概に魔法のお薬ではないのだろう。
う~む。。。父は大丈夫だったのか?
 
征の字が正露丸になったのは、「ロシアを征する」といった意味もあり、国際上良くないとのことで、改名されたものである。
 
 
 
このように戦時中は活用された正露丸であるが、勿論脚気には効果はない。
だが海軍では、日清戦争の時に沢山脚気による死者を出したため、対策を施していた。
日本軍は、脚気ビタミンB1の不足が原因で、白米だけでなく麦飯を食べれば防げると考え、海軍はそれに忠実に従っていたからである。
陸軍は森が日露戦争中も考えを変えず、白米を兵士に与え続けていたため、沢山の死亡者をだした。
日露戦争中に脚気で亡くなったのは、明治43年の発表では
海軍  脚気患者87名 脚気による死亡者3名
陸軍  戦病者37200余名のうち、脚気による死者27800余名
    脚気の患者数は30万を超えるとも推定される
 
作家としては一流であったかもしれないけれども、医師としては最低だと思ってしまう。。。
 

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東郷神社

御祀神は、東郷平八郎命です。
日露戦争時の連合艦隊司令長官であった、その人です。
世界の海軍の歴史において、東郷はイギリス海軍のネルソン、アメリカ海軍のジョーンズと並んで、世界歴代3大提督と称されています。
 
こちらに伺ったのは2回目です。
入口のところで、「ここだよ」と言われて、あれ!?ここ?と思ってしまった。。。
自分の記憶を辿っていました。
 
東郷記念館の神池を見ながら、階段を昇っていきました。
階段の先の狛犬さんが、個性的だったのを覚えています。
 

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ここが、神門のようです。

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左手に手水舎があります。
ひょうたんです。
 

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 社殿。
 
 
東郷平八郎は、日露戦争で露国のバルチック艦隊日本海において撃滅し、その戦法は、のちに欧米で「トーゴーターン」として、教育材料にまでなっている。
 また戦闘開始時に、Z信号旗とともに発した「興国ノ荒廃此ノ一戦に在リ 各員一層奮励努力セヨ」の号令は、昭和の海軍にまで継承されていました。
 
海の宮。
海軍・海事・水産関係者また崇敬者の諸霊を合祀奉斎しています。

 

 

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この日はお天気も良く、白無垢のお嫁さんをお見かけしました。

なんだか幸せな気持ちになりました。

 

社務所御朱印をいただきました。

 

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そういえば、以前来た時に変な質問をした覚えがあります。

 社務所に行き、『ビールは売ってますでしょうか?』と、たずねてみた。^^

今はもう売っていないんだそうだ。東郷ラベルのビールが欲しかったのに・・・。
社務所のお兄さんは、「今はもう、お客様に飲んでいただけるような品質ではなくなりましたので・・」と。

 

 

 

 

 

横須賀 三笠

 場所は横須賀。

日露戦争時では、当時の日本の最新鋭戦艦でした。

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ロシアのバルチック艦隊対馬沖で迎え撃ち、東郷平八郎指令長官が座乗する連合艦隊の旗艦として常に先頭に立って戦った戦艦です。
 
 
以前、海軍カレーを食べに来た覚えがある。
確か汐入で降りて、小泉純一郎が通っているとゆうカレーを食べに行った。
夕暮れせまる頃、街中を歩いたが、そこはまさに異国だった。
近くの基地から来たであろう黒塗りの車が降り立った。中には、偉いんだろうなって感じのアメリカ兵が乗っていて、そのまわりにはガッシリとしたSPの黒人が囲んでいた。
そんな記憶ですわね。
もっともその頃は、三笠なんてものには、全く興味なかった頃ですが・・・。
 
500円払えば、中に入れました。
あの時は「特別展 日露戦争に見る武士道」なるものをやっています。
入場券を買おうと思って並んでいると、前の白人さん達が、チケットを買おうとしていたところ。
並んでいたら、いんぐりっしゅで話しかけられてしまった・・・。
「お先にどうぞ」と言われたと思いますが、流暢に『Thank you !』と言ったら更に話しかけられてしまった。
ゲッと思って、更に困ったのが、目にみえるようでしょう?(笑)

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最新の無線も搭載されていた。
明治36年に開発された三六式無線機である。
これは、逓信省 技術の松代松之助が、作りあげていた実験機を、海軍技師の木村駿吉が大幅に改良したものである。
これにより、150km以上の通信が安定して可能となり、ロシアより優位にたてた
木村駿吉は、木村摂津守喜毅の息子。
幕末に軍艦奉行としてアメリカに渡り、帰国後は勝海舟とともに、日本海軍の組織整備に尽力した人物です。

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火薬の発明者、下瀬雅允(しもせ まさちか)も忘れてはいけません。
 
当時の火薬は乾燥するとすぐに爆発したので、常に
15%~20%の水を含ませておく必要があったが、その加減は難しかった。
多すぎると爆発力が落ち、少なすぎると爆発してしまうからである。
これを下瀬は、ピクリン酸にワックスを混ぜることで、冷やすと固まり、温めると爆発するとゆう安全性の高いものを開発した。

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さらに、当時世界最速を誇った日本艦隊。そのスピードを生み出したのが、「宮原式汽かん」
by 宮原二郎
特徴は、安価で制作が容易。 外国製よりはるかに小型で、エネルギー効率良し。

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そんな三笠。
戦いが終わったあと、佐世保に入港していたが、火薬室が爆発して沈没してしまったり、なんとか引きあげられるも、ワシントンの軍縮会議では、日本軍は他の艦船の問題を議題の中心にしたので、三笠は廃棄されることが決定した。
さらに、関東大震災で浸水し、浮力を失い廃棄は決定的であった
 
しかし、三笠の保存を願う国民の米国大使館の陳情と、政府が英米仏伊の4ヶ国に交渉を行ったので、保存された。
 
太平洋戦争で日本が敗戦すると、進駐軍は記念艦となっていた三笠の装備を取り外すように命じた。
これでもう、戦艦としての機能はすべて失い、ダンスホールとなってしまった。
が、次第に荒廃し放置されてしまった。
 
戦後10年が経過した際、昭和30年。訪日したイギリス人のジョン・ルビーは三笠を見て驚いた。
彼は時計商で、三笠が建造された時、日本の将校と親交が深かった。
だからこそ、三笠に人一倍愛着を持っていたのである。
帰国し、彼はそのことを「ジャパン・タイムズ」に投稿した。それは大きく取り上げられ、反響も多く、三笠保存の声が広がり、募金が集まり、修復が行われた。
で、現在は横須賀港にある。
 
外観は当時のままである。マストにはZ旗、艦首は日本の平和と安泰の願いをこめ、皇居の方角にむけられています

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提督ビールもお土産に
 
***由来
アミラーリ「東郷ビール」はフィンランドで生産が開始された。
東郷がラベルに登場したのは、意味があるらしい。
「大国ロシア」のバルチック艦隊を破った「東洋の小国日本」
 
それに勇気づけられフィンランドは1809年以降のロシアの支配と圧制から独立運動をおこし、1917年にこれを達成。
 
東洋の英雄「アドミラル トーゴー」は、現在でもフィンランドの小・中学校の教科書で紹介されているそうな。
1983年、(昭和58年) 当時の運輸政務次官フィンランドを訪問した際に、この東郷ビールの紹介を受け、深く感動した。
ビールを持ち帰り、「原宿東郷神社」に献上した。
その後、フィンランドの工場は買収され、ビンつめのみオランダで行われるようになった。
2006年8月からは、日本で生産されています。
お味はコクのある美味しいビールだそうです。(記念品のため、飲んでないです)
 
因みに横須賀くんだりから、ビールを2本買って持ち帰ってきて、かなり重かった。(T_T)
 
当時のロシアの海軍は、バルチック艦隊の他に太平洋艦隊、黒船艦隊があった。
日本艦隊と苦戦している太平洋艦隊と合流するために来たのだが、ルートも悪く、長い休息をとれないままやってきた。それで、アッサリと負けてしまったのかもしれない。
 
ですが、当時の日本兵は気骨があった。
上官を信じ、仲間を信じ、それぞれの仕事を行う。
そうゆう意識が、勝利を導いたのかもしれません。仲間を信じることが大切ね