一回一錠、日に三回服用
なにかといえば、正露丸のお話しです。
私が子供の頃。お腹が痛くなったりすると、母親は決まって正露丸を差し出した。
私は、この正露丸というものが大大大嫌いだった。
お腹は痛くても、飲んだふりしていつも吐き出して捨てていた。
だって、物凄く不味いんです。有り得ない、この世のものとは思えない不味さである。
まだ、赤玉のほうがマシでした。
脚気はビタミン投与で治るものであるが、当時は伝染病だと思われていた。
当時、この病気は西欧にはなくて、日本で特に多かったので風土病と考えられていた。
それに患者さんが一人出ると、軍の中で次々に増えていくことから、伝染病と考えた。
その後、木クレオソートは胃腸疾患の治療に使われたのである。
その時に利用されたのが、征露丸である。露国よりもまず、敵は病気であった。
兵士のほとんどが、征露丸を携行するとはいえ、兵士の間では評判が悪く、薬を飲まず、戦闘の途中に缶ごと捨てていた。
その気持ちは、個人的によくわかる。
だが、このことを知った将校の提案で、征露丸の缶には、次のようなことが書かれた。
「陛下のご希望で一回一錠、日に三回服用」と書いたところ、誰も捨てなくなったとゆう。
個人的には、お気の毒にと思う。(苦笑)
でも、そのおかげで、病気に負けることなく、勝利をおさめ、兵士たちから絶対的な信用を得ることとなった。
でも、考えてみれば殺菌作用があったわけであるから、傷を負った時には消毒薬にもなるはずである。(勝手な推論)
便利なお薬であったかもしれない。
現に私の父は、虫歯が痛んだりすると、正露丸を歯に詰めていた。
その当時は、父のそのセンスを疑ったものである。
あんなマズイものを! 父は正気だろうか?有り得ないと思ったものです。
両親は他の家の家庭よりも、若干年齢が高かった。だから、あんなに正露丸ばかり飲ませようとしたのであろうか??
謎である。
だが、現在の正露丸の取説には、「本剤が誤って皮膚に付着した場合は、せっけん及び湯を使ってよく洗って下さい」と書いてあるようだ。
それにお腹が治らないからと言って、服用しすぎて亡くなった症例もあるのだから、
一概に魔法のお薬ではないのだろう。
う~む。。。父は大丈夫だったのか?
征の字が正露丸になったのは、「ロシアを征する」といった意味もあり、国際上良くないとのことで、改名されたものである。
陸軍は森が日露戦争中も考えを変えず、白米を兵士に与え続けていたため、沢山の死亡者をだした。
陸軍 戦病者37200余名のうち、脚気による死者27800余名
脚気の患者数は30万を超えるとも推定される
作家としては一流であったかもしれないけれども、医師としては最低だと思ってしまう。。。
横須賀 三笠
場所は横須賀。
日露戦争時では、当時の日本の最新鋭戦艦でした。
以前、海軍カレーを食べに来た覚えがある。
確か汐入で降りて、小泉純一郎が通っているとゆうカレーを食べに行った。
夕暮れせまる頃、街中を歩いたが、そこはまさに異国だった。
近くの基地から来たであろう黒塗りの車が降り立った。中には、偉いんだろうなって感じのアメリカ兵が乗っていて、そのまわりにはガッシリとしたSPの黒人が囲んでいた。
そんな記憶ですわね。
もっともその頃は、三笠なんてものには、全く興味なかった頃ですが・・・。
500円払えば、中に入れました。
あの時は「特別展 日露戦争に見る武士道」なるものをやっています。
入場券を買おうと思って並んでいると、前の白人さん達が、チケットを買おうとしていたところ。
並んでいたら、いんぐりっしゅで話しかけられてしまった・・・。
「お先にどうぞ」と言われたと思いますが、流暢に『Thank you !』と言ったら更に話しかけられてしまった。
ゲッと思って、更に困ったのが、目にみえるようでしょう?(笑)
最新の無線も搭載されていた。
明治36年に開発された三六式無線機である。
これは、逓信省 技術の松代松之助が、作りあげていた実験機を、海軍技師の木村駿吉が大幅に改良したものである。
これにより、150km以上の通信が安定して可能となり、ロシアより優位にたてた。
木村駿吉は、木村摂津守喜毅の息子。
火薬の発明者、下瀬雅允(しもせ まさちか)も忘れてはいけません。
当時の火薬は乾燥するとすぐに爆発したので、常に
15%~20%の水を含ませておく必要があったが、その加減は難しかった。
多すぎると爆発力が落ち、少なすぎると爆発してしまうからである。
これを下瀬は、ピクリン酸にワックスを混ぜることで、冷やすと固まり、温めると爆発するとゆう安全性の高いものを開発した。
さらに、当時世界最速を誇った日本艦隊。そのスピードを生み出したのが、「宮原式汽かん」
by 宮原二郎
特徴は、安価で制作が容易。 外国製よりはるかに小型で、エネルギー効率良し。
そんな三笠。
戦いが終わったあと、佐世保に入港していたが、火薬室が爆発して沈没してしまったり、なんとか引きあげられるも、ワシントンの軍縮会議では、日本軍は他の艦船の問題を議題の中心にしたので、三笠は廃棄されることが決定した。
さらに、関東大震災で浸水し、浮力を失い廃棄は決定的であった。
しかし、三笠の保存を願う国民の米国大使館の陳情と、政府が英米仏伊の4ヶ国に交渉を行ったので、保存された。
太平洋戦争で日本が敗戦すると、進駐軍は記念艦となっていた三笠の装備を取り外すように命じた。
これでもう、戦艦としての機能はすべて失い、ダンスホールとなってしまった。
が、次第に荒廃し放置されてしまった。
戦後10年が経過した際、昭和30年。訪日したイギリス人のジョン・ルビーは三笠を見て驚いた。
彼は時計商で、三笠が建造された時、日本の将校と親交が深かった。
だからこそ、三笠に人一倍愛着を持っていたのである。
帰国し、彼はそのことを「ジャパン・タイムズ」に投稿した。それは大きく取り上げられ、反響も多く、三笠保存の声が広がり、募金が集まり、修復が行われた。
で、現在は横須賀港にある。
外観は当時のままである。マストにはZ旗、艦首は日本の平和と安泰の願いをこめ、皇居の方角にむけられています。
提督ビールもお土産に
***由来